【〜写真から学ぶ〜時間の新たなる感覚】
ども!おはようございます!管理人です!
今回展開していくテーマはこちら!
”〜写真から学ぶ〜時間の新たなる感覚”
です!
みなさんは写真を撮るのは好きですか?
ちなみに私は写真を撮るのが大好きです。そして今回は私が幾度か写真を撮って感じたことを今回は求めていきたいと思います!
ここでですが、私がよく撮る写真は決まって風景画です、よく自撮りや人物像を写真に収める人がいますが私は何故か風景画や無機物を撮ることに美しさを感じてしまいます。
その美しさというものは何かと言うと時間の重要性を感じるからです。
例えば枝についている木の葉だとしましょう。その葉は写真を撮る前にはまだ枝についていましたが、何か風は吹いたのでしょう。私自身見ていませんがそこにはどこか自然が我々に時間の流れ、いや生の流れを我々に訴えているようにすら私は感じました。
これは有機物ですが例えば椅子や鉄パイプなどの無機物についてもこのようなことを感じます。
椅子であればその椅子が新品でピカピカな状態であれば私はそこに風情を感じません。
私の心が動かされるなぁと思うのは、もう背もたれの部分の塗装が剥げたくらいが私は美しさを感じます。
この美しさは、日本人独特の感性であり他の国にはないものです。
所謂八百万の神です。
古来日本人が何故、すべてのものに神様が宿ると考えたのでしょうか?
私は、それを写真から感じました。そう時の流れです。
ましたや、製品としては傷ひとつ無い椅子の方が完成と言えるでしょう。
しかし、自然としての椅子はいかがでしょうか?
おそらく苔が生すまでボロボロになりやがて土に還りそしたそこから新たな椅子の原料となる木がでいる。と考えれば椅子の完成形は未完成こそが完成形ということになります。
これは人にも言えることでしょう。我々は常に未完成であるだから常に求め続ける。
所謂”無知の知”ですね。
自分は常に未完成(何も知らない)だから学び続ける。
写真一枚からでもここまで深く考えることができます。
他にも、この感性の発端は私にとっては侘び寂びから来ています。
侘び寂びというものは分解せいて考えてみると意味がさらに深く読み解けます。
侘び⇨自然の⇨然る(しかる)⇨然るべくなったもの
というようになり、私が上記で書いたものそのものになっています。
”ミニマリスト”と言われる人からも似たようなものを感じますね。
と、いうわけで今回は私の思想的なものも織り交ぜながら話を展開していきました。
いかがでしたか?
これからもこの侘び寂びからさまざな方に展開していきたいと思いますのでお菜のしみください!