【悪いことをしたら謝るという教育こそ謝れない大人を作っているのではないか? 謝る事についての認識の変化】
ども!みなさんおはようございます!今日のオーストラリアは心地よい風が吹き抜けながら夏の匂いを運んできているような気がする管理人です!
日本は冬真っ只中で厚着でお過ごしなのでしょうが今日のパース市はインド洋からの優しいかぜに煽られなが半袖一枚と下は袴だけで生活できるくらいに快適です。
さて!今回のテーマは私自身最近気になっていることです!
”悪いことをしたら謝るという教育こそ謝れない大人を作っているのではないか?”
です!
『悪いことをしたら謝る』この記事を閲覧している誰もが一度は言われたことがあるのではないでしょうか?
私もそう言われて育った1人でしたが、私には昔からこの事について1つ疑問がありました。
『悪いことって何?誰が決めたの?』
そんなこと気に留めなかったという方もいる一方私はこの悪いことというのがどうも引っかかってしょうがないんです。
私が考えるにこの悪いことって誰かが定義付けた悪いことではないでしょうか?
例えば道徳の時間などに悪い行いについて学んだとしましょう。
悪いことをしたら謝るということがそこには確かに記しています、では、何故謝るのか?については深く追求していないように思えます。
では、例えを道徳の教科書から私の経験に焦点を当てて考えてみましょう。
スターバックスでお客様からのクレームがきましたその対処について考えてみましょう。
※以前の記事を載せておきます
sutekinaikikata.hatenablog.com
ここで謝れる人と謝れずに相手との関係性もしくは企業としての価値に亀裂が生じるきっかけになるかもしれません。
では、悪いことの意味が他にある場合(教科書、しつけなど
自分は何も悪いことをしていないという判断をし、結果手に謝るまで行き着くことはないでしょう。
ではどうするべきなのか?それは他人からそ刺激によって作り出された悪いことという認識ではなく、自分の中で一体どこが悪いと思ったのか?そこにフォーカスした方が良い結果に落ち着くと私は思いますし、これこそが、謝れる人と謝れない人の差・違いではないでしょうか?
一番の相手との関係に亀裂を生じさせるのは平謝りだと私は思いますし、私自身が過去にそうでした。
この謝り方は事の発端を完全に無視した上、事故の保身に回るような謝り方です。
しっかりと何故?どのようにしたら良いのか?これから先の未来に向けてこうしていきたいなど、具体的かつ本質的に相手が求めているものを汲み取りそこから謝罪に進めていきます。
そして、ただただ謝罪で終わらせてはいけません。
相手に対してその指摘に対する感謝を伝えましょう。
自分の成長につなげてくれた相手への小さいながらの贈り物です。
そしてこの後の相手の反応によって人の本質が見えることがあります。
謝罪に対して自分の感情の揺らぎについて反省した場合とマウントを取りに来る場合です。
前者の場合は相手の感情を読み取っているように見えますが、後者の場合は自分が相手よりも有意な位置に立っているという錯覚からくるものです。
ちなみにマウントをとる人間の心理には相手への劣等感が故というのもあります。
しっかりと心からの謝罪と感謝を伝えたあとの行動でここまでわかります。
そして最後に。
謝ることを弱いことやカッコ悪いことだと思わないでください。
謝るというのは自分の成長を促す1つの方法で、現代では誰でもできることではありません。
ましてやプライドなんかという重荷を背負っている方々は謝れません、一度その荷をおろしてください。
それでは。