【説教と叱責は違うからね?どう相手を高めることができるのか?〜怒られ方のプロフェッショナル直伝〜】
ども!みなさんおはようございます!
現在時刻は朝の8時丁度。
ホームステイも今日で最終日で、それに伴い重いスーツケースを持ちながら少し早く学校につきすぐ近くのカフェでコーヒーを飲みながらこの記事を書いています。
どこか非日常にもかかわらず、それに慣れ始めている自分がいるというのがとても不思議ですがみなさんはどのようにお過ごしでしょうか?
では!今回のトークテーマはこちら!
”説教と叱責は違うからね?どう相手を高めることができるのか?”
です!
学生の頃に一度は何かしらで怒られた経験があるのはないでしょうか?
私もその1人です。ましてやみなさんよりも酷いかもしれません笑
※毎日怒られてました。
小中高と怒られ、それなりに場数を踏んできた私が感じたことです笑。
そんな中で怒られ方に大きく分けて二通りあったと私は思いました。
まず1つ目が、説教、もう1つが叱責です。
ちなみに私が怒られてきた中で全体の80パーセントは叱責でした。
叱責は読んで字の如く責めて叱るです。
相手に対し自分の感情にまかせ、言葉や行動をコントロールせずにしてしまうような気がしています。
では、後者はどうでしょうか?
後者も読んで字の如くですが、この言葉から言えることは、教えを説いていますね。
コレは、相手の立場にあって自分の価値観を押し付けたりすることもなく相手を尊敬した上で出てくる愛のこもった教えです。
それが最近混在しているように見えます。
指導という名目の個人のストレス発散に使われているのにもかかわらず言葉を知らないだけでその叱責を受けた生徒や従業員まで叱責を説教と勘違いしてしまっている。
相手の立場に立てるか、自分の感情に身を任せるのか
たった2つの一見してみたら同じようなもの、しかし、ここにも教育の本質があるのではないでしょうか?
以前の記事でも投稿したが、私にとって日本人のバイブル(聖書)は教育と歴史だと思っていて、もしくは歴史が紡いできた教育だ、つまり、聖書の内容を誤って伝えてしまえば相手の人生もしくはその先にまで影響を及ぼす事になる。
sutekinaikikata.hatenablog.com
そこを無視して本質までにも背をむけている日本社会をもう一度見直すべきではないか?
手始めに僕の記事を読むことをオススメします。