【倫理を見つめ直す〜変わってしまった言葉の意味と本来の意味の比較〜】
ども!みなさんおはようございます!夏の暑さでスライムになってしまうのではないか?というくらいに暑いです。
あ!申し遅れました!管理人です!
今回展開していくテーマはこちらぁ!”倫理を見つめ直す〜変わってしまった言葉の意味と本来の意味の比較〜”です!
倫理。高校生の時に授業でやったか、放送倫理などというさわりだと思います。
改めて聞きます。倫理ってなんですか?
私自身がこの問いをメンターから受けた際上記に書かれたことしか言えませんでした。
私自身もそこがかけていたのだとその時気づき改めて危機感と自分の無知さを改めて知ることになったのですが。
その木になる本来の意味は倫理の”倫”という字です。
何かの字に似ていますね!そうです!”輪”です。
なぜ人偏なのでしょうか?そこです!
そこに鍵が隠されていました。
その意味は人との輪です。人との輪とは社会です。
つまりはその社会でどう生きるかということです。
そして倫理の”理”の意味ですがみなさんご存知の通り(ことわり)です。
まとめると、社会で人と繋がって生きていくための理由を求める学問です。
これは福沢諭吉先生が私たちに伝えたかった本当の倫理の意味だと私のメンターは教えてくれました。
もう一度、最初の質問をします。
倫理ってなんですか?
私たちが受験勉強に使うために仕方なしにやっている学問ですか?
時代の流れによって本来の意味が変わりつつある。という話は以前の記事でも言いましたが、変わってしまうのは、私は良いことだと思います。
ただ、忘れてはいけ無いことが大切です。
その自体にはそれぞれの時代性というものが存在します。その時代性を無視して時代について語るということは言語両断ですよね。
その上でも、学問というものが必要なのかもしれません。それも以前の記事で書いているのでぜひ参照までに。
ある1つのもの条件がそこにあれば全てがそれに当てはまるとは考えてはいけません。
まず必要なのは時代性です。
パラダイムごとに思想は全く違いますし良くも悪くも捉えがちです。
教育勅語もまさにその際たるものです。
教育勅語も今では右翼だの左翼だので溢れかえっています。
でも、言っていることはあらかた間違っていません。
では、なぜ日本人はこのように、物事の昔の意味を知ら無いのでしょうか?
私はこれをパラダイムシフトに乗り遅れたもしくは、あまりにも極端すぎた。というものが問題点ではないかと思います。
日本人特有の曖昧さを重んじる精神が崩壊し始めていることを示唆しているかのようにも見えます。
変なことをいうようですが我々は日本人です。自国を知ることもせずに国際人を名乗るようなことはし無いで欲しいものです。